前四〇三年九月から前四〇一年にかけて、アッティケーにはアテーナイの民主政とエレウシースの寡頭政の両勢力が分立した。クセノポーン『ヘッレーニカ』、伝アリストテレース『アテーナイ人の国制』が筆を省いているために、この間の消息、ならびに分立終熄の過程を窺い知ることは難しい。本報告では事態の復元を試みたE. Carawan, CQ 56 (2006) の雄編を検証しつつ、その蹉跌の原因を探った。蹉跌の根柢には、内戦期の編年を歪めようとする同時代の輿論があることを示した。その際、主にイソクラテース第一八番弁論、リューシアース第二、七、一七番弁論を参照した。第二弁論では、クセノポーンが伝えるアテーナイ市民同士の戦闘が、アテーナイ市民と外敵の戦いに変形し、また第七弁論の弁者が寡頭政権下にあった過去を隠蔽しようとする現場を垣間見た。抄録『史學雜誌』121窶錀1(2011)111-112。