『映画「未来を写した子どもたち」と見る実践』
文学芸術第35号
「見る」という実践は、網膜に写った像の認知と、それに意味を与える記号操作、という2フェーズで語られがちであるが、本稿では、映画『未来を映した子供たち』のオーディエンスの見る実践に言及し、「見る」とは、様々な諸相で相互行為的に達成される実践であることを指し示そうと試みた。