『虞美人草』の主人公は、男3人・女3人の計6名であるが、藤尾という女性がいわば悪役でラストで憤死してしまう。彼女の婚約者同然になっていた小野は、繊細で優美な趣味を持つ文学研究者である。「色」の美しさに酔う感受性が藤尾と合い、余裕や贅沢を必要とするところから「博士」という名誉や藤尾の家の財産に惹かれている。「美」に心酔し、パトロンを必要とする点で小野は「詩人」といえる。しかし彼には、不幸な生い立ちがあり、京都には養親同然の先生と婚約者同然と思われている小夜子という娘がいた。この二人が上京してくるところからドラマが生まれる。小野は最後まで煮え切らない。ついに思い切って、小夜子を切り捨てようとしたとき、宗近に意見され思いとどまる。度胸のない、決断力のない男に小野は設定されているが、言い換えると、優しくて非情になりきれない男でもある。他の宗近や甲野とは違い、小野は個性や信念に乏しく、それだけに普通の人間が味わう煩悶や苦悩が伝わってくる。この作品では、おとなしく小夜子の夫になることになりそうだが、翌41年連載の『坑夫』以降の主人公たちは、小野に似た優柔不断な性質を持つ場合が多い。漱石の青年像の核ともいえる小野について分析した。 20頁~29頁