夏目漱石の最後の小説『明暗』は未完に終わっているが、分量が多く、登場人物も多い、複雑な作品である。これに対して〈富裕と貧困〉という二分法で、複雑な人間関係を図式的に整理したらどうなるだろう、というのが小論の狙いである。主人公の津田由雄・お延の若夫婦は、図式化するとちょうど真ん中あたりにくる。「富裕」になれそうでいながら、まだ金の工面に困っているからである。明らかに「富裕」の側になるのが、まず津田とお延それぞれの実親、それにお延の養親の岡本、津田の会社の上司・吉川などである。彼らが登場する場面には、芝居見物や晩餐といった華やかで贅沢な雰囲気がある。一方、「貧困」の側には、津田の養親の藤井、藤井の世話になっている小林、その妹のお金(きん)などがいる。お金はろくに見合いもせずに結婚することが決まっている。これは、花嫁修業中の岡本の娘・お継と対照化されており、岡本と藤井の家の子供たちは金銭感覚が違うことも強調されている。このような視点で見てみると、漱石は〈富裕と貧困の構図〉を意識的につくりあげようとしているのが分かる。この事実だけでも「則天去私」の態度であるがままに書かれたなどとは言えないことが明らかである。 42頁~52頁