夏目漱石は短編小説『趣味の遺伝』(1906年1月、『帝国文学』)で、日露戦争における旅順要塞攻撃を描いている。主人公で語り手の「余」は新橋駅で満州の戦場から凱旋した将軍と兵士たちの帰還に遭遇する。そこで彼は1904年11月26日の旅順要塞総攻撃の際に戦死した友達のことを思い出し、さらに友達の最後の突撃場面とその死に想像をめぐらす。 漱石は、の突撃シーンを詳細に描きだしている。「浩さん」と呼ばれる歩兵中尉は陸軍の第三軍第一師団(東京)に属し、旅順背面要塞の一つ「松樹山(しょうじゅざん)」に向って突撃した。本論文では、まず冒頭に登場する〈戦争〉のイメージについて検討し、次に1905年11月・12月ごろに盛んであった凱旋部隊歓迎の光景を漱石が描いた意味について考える。
そして、この小説に描かれた第三回旅順総攻撃における第一師団による「松樹山」突撃が、「二百三高地」攻略に比べ日露戦争の歴史上ほとんど無視されてきたことを指摘した。それは、特別編成の独立部隊である「白襷隊」の派手な玉砕のせいでもあった。その上で、なぜ漱石はわざわざ負け戦の「松樹山」突撃を描いたのかについて考察した。