1990年代・村上春樹文学の可能性を探る準備作業として、91年に発表された短編小説「沈黙」を読み解いた。その結果、作者の言う「ストレートな話」として受け取るかぎりで、集団への不信と個であることを貫く強さへの称賛が主題の成長物語と読めるこの小説が、しかし実際には、成長物語に回収されない残余を語ってしまっていることを確認した。その残余から浮かび上がるのは、自己の分身に向けられた憎悪が認識されないまま内向し蓄積された結果、いつか歯止めのきかない暴力となって回帰して自己を失ってしまうこと、そうした自己の内なる〈他者〉に対する激しい恐怖である。こうした〈他者〉に対して開かれた想像力のなかに、困難な状況のなかで「コミットメント」を模索していた90年代・村上春樹文学の良質の部分があると考えるが、それが明確な言葉として語られる95年の「オウム真理教事件」に対する洞察より以前の91年の段階で、すでにひとつの可能性として先取りされていることが「沈黙」のテキスト分析によって明らかになった。